子どもの頃から外濠を見つめてきた酒井さんに聞く、外濠の今昔
徳川家康が江戸城を築くまで、江戸と呼ばれることになった武蔵野台地は、葦が生い茂った湿地でした。築城はもちろんのこと、徳川家臣が住む場所を確保するのも大変だった時代から、東京が今のように世界に誇る大都市へと発展した背景には、外濠をはじめとする水路の存在がありました。江戸城(現在の皇居)の周りにあるお濠のさらに外側、日本橋川の一部や外濠川、汐留川の一部、飯田橋から四ツ谷、そして赤坂見附、さらには神田川下流部まで張り巡らされていたのが外濠(そとぼり)です。JR中央線に乗ると、飯田橋~市ヶ谷駅間に見える池も外濠の名残。私たちが何気なく見ている景色にも、外濠は溶け込んでいるのです。
今回お話を伺う酒井利招さんは、1940年代に幼少期を過ごし、以来ずっと外濠の移り変わりを見てきた目撃者。「かつてはフナやウナギもよく捕れた」と回顧する酒井さんのお話を伺いながら、東京の歴史と魅力が再発見してみましょう。
戦後は外濠周辺にもホタルが飛んでいた!?
1939年生まれの酒井さん。現在も外濠の近くに住み、飯田橋西口再開発組合の役員としてこの土地での暮らしを見つめ続けています。そんな酒井さんが10歳だった頃。外濠は今では想像がつかないくらい、さまざまな生き物が暮らす豊かな自然があり、子どもたちの遊び場でした。
「私が10歳くらいの頃、友達と四つ手網という網を持って魚を捕りに行くのが毎日の楽しみでした。中央線の線路を渡って外濠に入り、フナ、ウナギなどいろんな生き物を捕っていました。水草もたくさん生えていて、魚を家に持ち帰るときには、酸素不足にならないように水草も一緒にバケツに入れて持って帰ったものです」当時遊んでいた外濠は、今の東京大神宮(千代田区富士見2丁目)のあたり。まさに飯田橋駅のすぐ近くだったというから驚きです。
「飯田橋駅に隣接するショッピングモール飯田橋ラムラは、もともと飯田濠という外濠の一部で、埋め立てられてしまいましたが、小エビが釣れる絶好のスポット。釣った小エビは家に持って帰って醤油と砂糖で煮てもらい食べていました。甘じょっぱいあの味は、外濠の美味しい思い出です」話によれば、飯田橋駅からほど近い東京大神宮周辺の外濠には小エビだけでなくホタルも生息していたそうです。
地下鉄四ツ谷駅が地上にある理由は外濠だった!?
戦後の当時の外濠周辺は、子供たちが釣りをするだけではなく、泳いだりするようなとても良い遊び場だったそう。一体外濠周辺はどんな景色だったのでしょうか。
「今の神楽坂付近は東京大空襲でほとんどが焼けてしまいました。飯田橋周辺の外濠北側は戦争時、被害が大きかった場所。反対に、現在の飯田橋駅を境に外濠の南側はお濠があったおかげで火の手が回らずに済みました。ちょうどそのあたりにあった旧東京警察病院(現在は日本基督教団 富士見町教会)の屋上からは富士山が見えて、子どもの頃は凧揚げをしてよく遊んだものです」
また、赤坂見附から四谷濠(真田濠、現在の上智大学グラウンド〜四ツ谷駅)周辺は、特に外濠の景色がきれいな場所だったそう。四谷濠は埋め立てられましたが、上智大学グラウンド沿いにある土手の石垣から、四谷濠の面影を偲ぶことができます。外濠のすぐ近くに線路があり、水が満ちている光景は今では見ることができません。ちなみに、地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅は、四谷濠の中に造られているため、地下鉄にも関わらず地上にある珍しい駅となっています。今の私たちも、外濠の存在を感じられる瞬間かもしれません。
「飯田橋駅周辺は、材木屋や警察の剣道柔道場もあり、とても活気がありました。飯田橋ラムラには材木屋の船付き場があり、屋形船で両国まで出ることもできたんですよ。」
こうしたお話からも、外濠は人々の交通路としても大切に使われ、東京の発展を支えてきたことが伺えます。
外濠で築かれてきた街の人たちのつながり
時代の変遷とともに、外濠の景色だけでなく外濠周辺地域の人々の暮らしも少しずつ変わってきたようです。
「かつて、富士見町では町内会で餅つきをするくらい、町内で暮らす人と人とのつながりは濃いものがありました。餅つき以外にも、縁日や神輿の出るお祭りも毎年開催していました」外濠の景色を思い出しながら、酒井さんが次のようにも話してくださいました。
「東京は新しいものがどんどんできる街。それはそれでとても良いことですが、やはり古い店や馴染みの場所がなくなってしまうのは、やはりどこかで寂しい気持ちもあります。老舗甘味処だった神楽坂の『紀の善』は2022年に閉店してしまいましたし、神楽坂でお座敷終わりのお姉さんがたとすれ違う光景はもうありません。三味線の音がよく聞こえてきた街の活気が懐かしいですね」
東京の下町に限らず、全国的にも大型スーパーや商業施設の台頭で、魚屋や肉屋、八百屋などの個人商店が姿を消している今。街の個性を作るのは、外濠のような土地ならではの景色と、そこに暮らす人たちの人情やつながりなのかもしれません。
きれいな水辺のある景色を次世代に!
「外濠の中には、冬になると渡り鳥が飛来する場所もありました。中央・総武線の外濠沿いは水辺と桜が美しい、春の名所です。都内で生活や通勤の場の近くに、こんなふうに自然の美しさを感じられる場所はそれほど多くありません。私は旅行をするときは船に乗るのが好きなのですが、それはやっぱり水辺が好きだから。人間は、本能で水辺の景色を心地よいと感じるものです。だからこそ、外濠のような地域の資源を次の世代に残す方法はないものかと感じます」
また、JR飯田橋駅から市ヶ谷方面へと伸びる外濠沿いは、春になると桜並木の花が満開になり、街ゆく人たちの心を癒しています。この桜を植えたのは、東京飯田橋周辺に暮らす人たち。50年以上も前から外濠周辺の景色を大切に守ってきたことが伺えます。
「約60~80年といわれる桜の寿命に差し掛かっている外濠周辺の桜の木々は、弱わったり台風や大雨で枝が折れたり、倒壊したりするなど困難に直面したこともあります。ですが、東京で桜と水辺と都市が一体となった貴重な景色の1つ。街づくりの中で、外濠や川を埋め立てて広場にする方法があるかもしれませんが、土手から水辺や春の桜並木を眺められる場所はなくなってほしくないですね。江戸時代から続く外濠を取り巻く歴史と景色をうまく残しつつ、誰もが水辺の環境を楽しめる施設を作る方法を、住民や企業・行政が一緒になって考えれば、きっともっと魅力的な街づくりができるはずです」
その言葉には、外濠のある暮らしを次世代に託す想いが込められています。
おわりに
戦後から外濠の変遷を見つめ続けてきた酒井さんのお話からは、東京に暮らす人々にとって、外濠という水辺が暮らしに近い存在だったことがわかります。江戸時代に築かれ、戦争という歴史も潜り抜けてきたことに、「これからも私たちの身近な存在として息づいていってほしい」という思いを新たにしました。
江戸時代に築かれた外濠の石垣と水辺、そして現代的なビル群の街並みが同居する景色は、世界的に見てもユニーク。まさに東京でしか味わえない歴史の流れを体感させる場所です。
だからこそ、これからも人と水辺のいい関係をつくり、次世代につなげるためには、美しい水辺を整えることも大切です。まずは今の景観や資源を生かしながら、かつてのようなきれいな水の流れる外濠を再生していくことが、私たちにできることなのかもしれません。